もしかしたら、バンコクで一番好きな場所を見つけてしまったのかもしれない。
宿から歩いて二十分。
この街で二十分歩くというのは、日本の二十分とは少し意味が違う。照り返しは容赦なく、信号は気まぐれで、歩道は急に消える。それでも「行ってみたい」が勝った。
その価値は十分にあった。
旅をしていると、有名な観光地よりも「もう一度来たい場所」のほうが記憶に残る。ここは、まさにそういう施設だった。
エレベーターを降りた瞬間、空気が変わる。
静かで、いい香りがして、街の喧騒がドア一枚向こうへ置き去りになる。
バンコクのど真ん中にいるはずなのに、頭の中だけ別の国へ移動したような感覚になる。
温泉は草津や箱根をイメージした湯が並び、炭酸泉もある。
サウナはヒマラヤ岩塩に囲まれたセルフロウリュ。
スチームサウナには本物のレモングラスやライムが置かれ、深呼吸するたびに「ああ、ここはタイだった」と思い出す。
水風呂はしっかり冷たい。
そして休憩スペースから見えるのは、高層ビルが並ぶバンコクの街並み。
この景色が面白い。
二十年前、バックパッカーだった頃のバンコクには、こんな風景はなかった。
カオサンロードで時間を溶かし、一杯百円もしないビールを飲み、次はどこの国へ行こうかと考えていた。
あの頃の旅は、安さを探すゲームだった。
今は少し違う。
静かな場所を探し、時間を買い、身体を整えることにお金を使うようになった。
歳を取ったのかもしれない。
いや、旅の楽しみ方が増えたと言ったほうがいい。
もちろん値段は安くない。
バンコクにはもっと安いマッサージも、もっと安いスパもいくらでもある。
でも、この場所は「高い」ではなく「納得する」という表現がしっくりくる。
不思議なのは、高級施設なのに肩肘張らなくていいことだ。
スタッフは親切だが過剰ではない。
商品は並んでいるのに押し売りもない。
ただ静かに過ごしてほしい、そんな空気が流れている。
旅先では、何を見たかより、どんな気分になれたかのほうが後から残る。
ここは、観光地ではなく「心拍数を下げる場所」だった。
もし深夜便で日本へ帰る日なら、最後にここへ寄るだろう。
そしてきっとまた二十分歩く。
あの二十分は、温泉までの距離ではない。
日常から自分を切り離すために必要な、ちょうどいい助走なのだ。
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